歴代の教皇様方の中で、僕が最も尊敬し、愛してやまないのがこの聖ピオ10世教皇です。
聖ピオ10世は、「聖体の教皇」と呼ばれ、また貧しい者の友でもありました。実際教皇ご自身もキリストのように貧しく生まれ、貧しく生き、全ての人に順応し、教皇としての職務を忠実に果たされました。

また、このHPで紹介している聖テレーズの列福・列聖調査の導入の時を早めて下さったのは、この聖ピオ10世です。聖テレーズの自叙伝を読まれた聖ピオ10世は、テレーズについて「現代のもっとも偉大な聖女だ!」とおっしゃり、テレーズの御聖体に関する考え(手紙71番参照)にも深く感銘されました。

思わず「ああ! これは私にとって大きな喜びだ! ・・・この列聖調査は、大急ぎでしなければ!」と叫ばれたほどです。そんな聖ピオ10世教皇様の生涯を簡単ですが、ご紹介させて頂きたいと思います。

幼年期
聖ピオ10世は、1835年、北イタリアのリエゼと言う小さな村で、サルト家の8人兄弟の長男として生まれました。ピオ10世のお父さんは、村役場の門番や郵便配達を勤め、お母さんは、家事の合間に子供達にしつけや宗教教育に力を尽くした人でした。洗礼名をベッピ(ヨゼフの愛称)と呼ばれたピオ10世は、幼い頃から、親切で、信心深く、しばしば近くの聖母堂を訪れては、草花で聖母の祭壇を飾り、その前で歌ったり、祈ったりしていました。

教会付属の小学校を優秀な成績で卒業した後、リエゼから7キロ離れた中学校に通学しましたが、少しでも家庭の負担を軽くしようと靴を肩に担いで素足で歩き、町の入り口では、それを履くようにしていました。7歳頃、最年少にもかかわらず、子供達の中心的な存在になり、太鼓をドンドン叩きながら先頭に立ち、町はずれにある聖母の聖堂まで巡礼したりしました。その聖堂の前で、ベッピらの小さい巡礼団は、摘んできた草花で聖母像を飾り、天使祝詞を10回ほど唱え、聖母讃歌を歌たった後、円陣を作って遊ぶのでした。この巡礼団は、しばしば招集されましたが、子供達は、いつも喜んで参加し、後の教皇の心にも、いつまでも忘れら無い思い出として残ったそうです。

さて、素足で学校に通うベッピでしたが、学校では、優等生であり、特に数学、化学、音楽は群を抜いていました。でも、それ以上に素晴らしかったのは、彼の生きた信仰でした。授業も終わり、夕暮れが近づいてくると、少年ベッピは、いつもカステルフランコの大聖堂に入り込み、ジオルジオーネの聖母を眺め、跪いていました。その聖母は、青と赤の服を着ている聖母が眠っておられる幼いイエズス様を膝に抱き、その後ろには美しい海の風景が描かれています。「お母さん、聖母を眺めていると焼き付くような火を感じる」ビッペは、しばしば母親にそう語りました。

司祭時代
ベッピは、カステルフランコ・ヴェネト中学校で、4年間主席を占め、その課程を終えると、パドアの神学校の特待生になりました。そして次は、トレビィゾ大神学校に行き、こうして1858年9月18日に23歳で、未来の教皇ジュゼッペ・サルト神父が誕生しました。サルト神父が最初に就任したのは、トンボロと言うとても小さく貧しい村の助任司祭でした。しかし、サルト神父は、そこで主任司祭のコンスタンチニ神父との間に忘れられない思い出を作りました。コンスタンチニ神父は、すでに老齢で体力もなかったのですが、精神力の於いては、驚くほど活発な人でした。生涯、ピオ10世教皇の胸に刻まれたコンスタンチニ神父の言葉に次のような言葉がありました。「摂理に仕損じは、決してない」「祈れなければ、泣けばよい」

このトンボロで、サルト神父がどれほど貧しく、しかも良い牧者として生活していた事でしょう。サルト神父は、あまりにも働きすぎて、ついに2回も失神したので、主任司祭は心配し、一週間の休養と同時にスータンを新しい物と取り替えるように命じました。コンスタンチニ神父にとって、この2つの事を実行させる事は、とても困難な事でした。ですから「命令」するしか有りませんでした。

トンボロ村では、9年間、特に子供達の教育に心血を注ぎました。その授業料は、ただケンカと口論をしない事でした。不幸な人を見れば、お金に限らず、トウモロコシや小麦などを気前よく与え、お金に困れば母親にもらった時計を質に入れました。1867年以来サルサノの主任司祭になってからも、自らは貧しく暮らしながら、他人に対しては万事豊かでした。

食物でも家具でも、かたっぱしから病人や貧者に施すので、司祭館のお手伝いをしていた妹のローザが、ブツブツと文句を言うと、「ローザ、そう気にするな。神様が良いようにして下さるよ」と答えていました。また聖堂や祭式は、どんなに美しく、デラックスな物にしても過ぎる事はないと言う考えから、サルト神父は、ほうぼうで行った説教や黙想の指導などの謝礼金で聖堂に大理石を敷き、新しいオルガンを買い求め、壁を修理し、壁画を塗り替えました。

1873年、イタリア全土にコレラが流行した時、部下思いのサルト神父は、勇敢な助任神父に「患者の看病や死者の埋葬などは私が一人でやるよ。君たちは、ピンピンしている人の世話をしておくれ。彼らをしっかりさせるのも楽じゃないよ」と言って、昼は病床から病床へ駆け回り、夜は死者の埋葬に全力を尽くしました。

主任司祭を9年勤めた後、サルト神父は、トレヴィゾの神学校教授に迎えられましたが、その頃、ナネと言う老夜警に午前3時に起こしてもらっていました。熱心なサルト神父は、しばしばその前に起きて勉強している事もありましたが、この老人の足音を聞くとすぐにランプを消して、この老人に「自分も役に立っている」と思わせるようにしていました。「我々を助けてくれる人は、いつも彼が我々にとって大切な有益な友である。と言う印象を与えるようにしたい。彼の忠実さも、もっと良い事には、彼の幸福も、それで増大される」と、サルト神父は言いましたが、誠に人の長たる者の優しい心遣いです。

司教時代
1884年11月1日、サルト神父は、マントヴァの司教に任命されました。サルト司教は 「司教館は、誰でも出入り自由。特に私の心の扉はそうだ」と言って、司教館を全て解放し、また自ら神学校に行って授業をしたり、小教区の聖堂を訪ねては、罪の告白を聞いたり、要理を教えたりしていました。

その頃、町のある反聖職者主義者が、サルト司教の悪口を書き立てていましたが、ふとした事から破産して無一文になってしまいました。これを聞いたサルト司教は、慈善家の一婦人を呼び、彼の事を詳しく話してから「ご覧の通り、彼も不幸な男です。彼の奥さんの所に行って、このお金をやって下さい。とにかく、私があなたに頼んだ事を決して言わないで下さい。あんまりしつこく聞くようでしたら、このお金を集めたのは、一番慈悲深い女性、永遠の助け手なる聖母なのです。とでもおっしゃって下さい」と言って、自分を攻撃し続けていた、この反聖職者主義者の男を助ける為にお金を婦人に渡しました。

またある日の事、食事の世話をしていた修道女が、あたふたと司教の書斎にやって来て言いました。「司教様、大変でございます。私がちょっと留守をしておりました間に、台所から肉の煮物がナベごと盗まれてしまいました。私達がお昼に食べる物が全部無くなってしまいました」 

サルト司教は、少し困ったような顔をして答えました。「きっと猫の仕業かもしれないよ!」 少々、興奮気味の修道女は言いました。「猫ですって! とんでもござません。猫が肉をナベごと盗むわけがありませんもの・・・」 益々当惑したサルト司教は「私がその猫だよ。実はさっき貧しい男がやって来て、奥さんが病気で寝ていて、肉のスープを少し欲しいと言うものだから、あの肉を全部やってしまったのだ。安心しなさい。私達の事は、神様がちゃんと心配してくれるからね」と、そっと打ち明けたのでした。

枢機卿時代
サルト神父の生涯には、区切りの良い一定のリズムがありました。と言うのは、パドアの神学校に9年トンボロの助任司祭も9年、サルサノの主任司祭も9年、トレヴィゾの大神学校副校長(司教座大聖堂参事会員と同時代)も9年と、いずれも9を区切りにして次の段階に移っていったのでした。マントヴァの司教職もまた9年でした。この時、教皇レオ13世は、サルト司教を枢機卿に命じ、ベネチアの大司教としました。サルト大司教は、ベネチアでもまた庶民の友になりました。彼は町々を歩き、囚人を見舞い、司祭の平服を付けて貧しい人々も訪ねました。

今日も枢機卿は裏町に入り、ボロ小屋で病床につき、うなっている婦人を訪ねました。「ご病気だそうですね、奥さん。出来ればお助けしたいと思って参りましたよ」 「ふん! ご親切に。お前さん、一体どこの司祭?」 「司教座大聖堂に勤めています」 「ああ、そう。司教座の末席ね。あんたが大司教様でないのが悔しいよ」 「でも奥さん、大司教様でも私よりお金を持っているわけではないでしょう」 「何言ってんのよ! 大笑いさ。あんたね、情け深い神様はね、貧しい人の事なんか忘れてしまっているんだよ。ふん! 天国からこんな路地を向いてくれるもんか。臭いんだからね、ここは。しまった。しまった。こんな事を言うんじゃなかった。これであんたも来なくなるだろう」 「いえ、また参ります」

この夜、枢機卿は眠れませんでした。ローソクを付けて家中をウロウロし、貧しい人々を救う為に何か質草はないかと探しました。しかし、すでにたくさんの品物が売り払われていました。マルコ大聖堂から着座式の時に寄贈された銀の大ローソク立てもなく、金庫も空っぽです。でも「神様は、貧しい人の事なんか忘れている」と、あの婦人の言った酷評は、いつまでもサルト枢機卿の心の中に響いていました。やがて夜が明けました。夜通し考え、祈り、決心したサルト枢機卿は、こっそりと質屋のレビィ老人を訪ねました。

「これは、これは、枢機卿閣下の御入店を当店が得ますなんて、一体何のご用で?」 枢機卿は、司教指輪を机の上に乗せて言いました。「これだよ」 「閣下、その指輪を質入れなさるのですか? 大聖堂の行事にご入り用なんでございましょうに」 「レビィさん。キリストは私の指輪より、私の心を問題になさる。それにキリストの御名において、人々を祝福するのに指輪は特別必要ないからね」 「相変わらず寛大な牧者でいらっしゃる。それでいかほど必要で?」 「そうだな、800リラ」 「閣下、800リラは大金ですぞ!」 「そうだ、800リラは大金だ。しかしそれが今いるのだ」 「わかりました。閣下、指輪をお出し下さい。私は、閣下がレビィ老舗の良いお得意様である事を光栄に思います」

翌朝、秘書のブレッサノは、枢機卿の手にふと目をやりました。「指輪を無くされたので、ありませんか?」 枢機卿は聞こえないふりをしました。秘書の声は思わず大きくなりました。「閣下は。、また・・・」 「そうだ、その通りだ。指輪は、レビィが持っている。しかし、これは誰にも言ってはいけない。そしてこの受取書をちゃんと保管しておいておくれ。また出す必要があるかもしれないから」 秘書は思わず嘆声しました。「おお、神様。どうぞ閣下が教皇様におなりになる事がありませんように。聖ペテロ大聖堂も質入されかねませんから!」 しかし、数時間後に秘書は、感動して慌てて司教事務所に駆けつけました。「閣下、ここにあなたの指輪があります。しかも800リラは、どうぞ納め下さいとの事。他言は、禁じられましたが、今、レビィ老人が立ち去る所です」 あちらから出たものは、今は、こちらからでした。

ベネチアの大司教となってから9年が過ぎた1903年7月20日、レオ13世が逝去されました。それは、枢機卿にとっては全く摂理的な9年でした。サルト枢機卿は、教皇選挙のためにローマに向かいましたが、特別集会が終わった後に着くようにしました。それによって認められずに済むと思ったからです。でもサルト枢機卿は、教皇に選ばれました。サルト枢機卿は、最初、教皇職を受け入れませんでした。それは、枢機卿にとって教皇職の責任は、あまりにも大きかったからです。枢機卿は、御聖体と聖母像のそばで祈りました。そしてついに教皇職を受け入れたのでした。「主の御旨が行われますように!」

教皇時代
サルト枢機卿は、自ら教会の為に苦しもうと思いピオ10世と名乗り、バチカンで暮らす事になりました。しかし、ピオ10世の生活は一生変わらず、自らも貧しく、貧者の友であり、どんな小さい事も怠らない熱心ね勤労者でありました。その在位中の業績は、実り豊かなものでした。またピオ10世は、大変愛に満ちていて、彼は、他人に対しては、いつも惜しまないで与えていました。天国にたくさんの蓄えがあると確信して、明日の事も忘れて与えていました。しかもお金は、ピオ10世の手中で文字通り増えていきました。

ある日、教皇は、事務所の金庫を指して言いました。「私にもさっぱり分らない。とにかく、たくさんのお金があそこを出たり入ったりする」 1912年迫害の末、ポルトガルの教会が極度の貧窮に陥った時の事です。オポルトの司教はローマに急行し、ピオ10世に援助を願いました。「今の所、どの位ご入り用ですか?」 「100万リラ位です」 「100万リラは、今私の手元にはない。でも明日もう一度来て下さい。私が調べて探しておきます。神様も私達をお助け下さるでしょう」 翌朝、100万リラは、ちゃんと用意されていました。ピオ10世は、パチェリ神父(後の教皇ピオ12世)に、金額を確認するように頼みました。

ところで、丁度その時でした。教皇私室長官が、外国の訪問客が至急、ご面会を願っていると教皇に告げました。「よろしい。すぐに会おう。パチェリ神父、君はこのお金を持って、この小門から出なさい」 外国からの訪問客とピオ10世との面談は10分足らずで終わりました。しかし、その後で何か用事はないかと入ってきた教皇私室長官に、ピオ10世は、パチェリ神父が去った小門を指して言いました。「あちら側から出て行った物は、君の承知の通り」 そして、もう片方の大門を指さして言いました。「今、こちらから入ってきた物をご覧なさい」 驚く私室長官の前に差し出された物は、今、外国人の客が寄付した100万リラの小切手でした。

「公私の慈善にピオ10世が、どれほど配られたか、主だけが知っておられる」 これは、ピオ10世の片腕と言われたデル・ヴィル枢機卿の言葉です。ピオ10世は、持っている最後の物まで上げてしまって、はじめて幸福になれる人でした。神の為に貧しく生きるとは、言い換えれば、絶対的な信頼に生きる事でしょう。そして、さらに神の為に貧しく生きようとする事は、隣人愛に生きようとする事と同じ事とだと言えるでしょう。ピオ10世は言っています。「あなた達一同に、みなぎって欲しいのは、何事も自分の利益を求めない愛徳であります」(ピオ10世の司祭に対する勧告より)

聖ピオ10世は、20世紀初頭の混乱した社会をキリストに於いて建て直す為に、燃ゆる火のように活躍されました。まず教皇庁の改革と教会法の法典化に乗り出され、司祭養成上の改革、宗教教育、グレゴリア聖歌、聖務日課の改革など次々に断行されました。特に「聖体の教皇」の名にふさわしく毎日の聖体拝領、7歳以上の聖体拝領の推奨、また病人が御聖体の秘跡に近づく事を容易にしました。

特に聖ピオ10世が力を入れたのは、近代主義と言われた全ての異端から、教会を守り、浄める事でした。ところが今のカトリック教会は、この聖ピオ10世が闘った近代主義にどっぷり浸かってしまっています。もし、今の教会をピオ10世がご覧になったら、どれ程ショックを受けられる事でしょう。エルサレムの為にイエズスが泣かれたように、教会の為に泣かれる事でしょう。そんなピオ10世は、教皇在位11年目の1914年、各国との平和回復の努力にもかかわらず第一次世界大戦の勃発を見て、心痛のあまり病気になり、同年8月20日に天に召されました。今、ローマ・カトリック教会は、第2、第3のピオ10世を熱望しています。

キリストが創設された、いとも聖なる宗教は、今、激しい激動と猛烈な迫害にさらされています。現在、益々増える、誤謬で欺かれた多くの者は、終いには、信仰を捨てる極めて危険な状態になっています。したがって、立っている者は倒れないように気を付けましょう。私達は、悔い改め、誠の道から、はずれないように、神の御母のお執り成しによって、神に謙虚に懇願いたしましょう。公教会は、いつもでも、攻撃されるでしょう。聖母は、私達が、最も、難しい試練の時でも助けて下さいます。彼女は、いつも戦っておられ、御宿り以来の報いがあります。私達は、いつも、「古い蛇の頭は、今日、彼女によって砕かれた」と言いましょう。(聖ピオ10世教皇の言葉)

祈りについての聖ピオ10世の言葉
自分自身の聖化と隣人の救いとの望みに満たされた霊魂にとって、神に心をあげる機会が1日に間にどれ程たくさんある事か。・・・・私達は、自分たちの為だけに涙を流すべきではありません。いたる所に広がり、大きくなってゆくこの罪の洪水の中で、私達こそ、神の仁慈に懇願し、聞き入れて頂く義務があるのです。その限りない慈愛に於いて、私達に、その拝すべき秘跡のうちに全ての恩恵を惜しみなく与えられるキリストに切に祈る事は、私達の義務であります。「滅ぼしたもうな、主よ、御身の民を滅ぼしたもうな」

霊的読書の利益についての聖ピオ10世の言葉
友に率直に注意し、忠告によって助け、戒め、勇気を取り戻させ、誤りと不幸から彼を遠ざける友達の声が、相手の精神に与える非常に大きな影響力を知らない人が一体いるでしょうか? 「誠の友を見出す者は、幸いである」(シラ25:12)と、聖書は言っています。したがって、私達は、聖書と霊的な書物を自分の本当の忠実な友のうちに入れなければなりません。

と言うのは、それらの書物は、私達の義務と正当な規律の諸規則とを激しく思い起こさせるからです。それらは、時々、抑えつけようという気になる超自然の声を私達の心の中に起こさせ、私達の良い意図から無気力を振い払います。それらは、不誠実で、危険な安心感の中に私達を眠らせておかず、あまり良くない陰険な私達の感情を非難し、軽率な人に、しばしばその人達を狙っている危険を知らせてくれます。

それらの書物は私達にとって、誠の友であるだけでなく、最良の友でもあるほど、慎ましい好意を持って、私達にこれらの全ての良い奉仕をしてくれます。事実、私達は自分の好みに従って、それらの書物を自由に使う事が出来ます。それらは、私達の霊魂の必要に応じて、いかなる時にも私達を助ける為に、いわば、絶えず私達のそばにあるのです。確かに多数の注目すべき例が霊的書物の良い効果を私達に証明しています。

その効果は、聖アウグスティヌスの例に現れています。何故なら、このような読書が彼にとって、神の教会における彼の偉大ないさおしの出発点だったからです。彼は次のように書いています。「取って読め。取って読め。私は取った。開いた。そして黙って読んだ。あたかも平安を与える光が、私の心に入り込んだようだった。私の暗闇は全て、一瞬のうちに消え去った」

 

聖体拝領は、天国への最も短く、そして最も安全な道である。− 教皇聖ピオ10世 −

 

引用文献:教会の聖人たち(下)、聖人たちの知恵(サンパウロ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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