人の子が来る時、地上に信仰を見出すだろうか・・・・。(ルカ18:8)

聖ピオ10世教皇 (祝日8月21日 教皇在位:1903 −1914)

1909年、フランシスコ会総会の折の謁見の場で、教皇は脱魂状態になったように見えた。居合わせた人たちは身動きもせず、沈黙を守っていた。しばらくすると、教皇ピオ10世は目を開き、椅子から立ち上がって大きな声で言われた。

私が見たことは恐ろしい事だった! あれは私の事だろうか? それとも、私の後継者の一人の事なのだろうか? 間違いなく起こるのは、教皇がローマから退去し、バチカンを去る時には、自分の司祭達の遺骸をまたいで行くほかないと言う事だ。

教皇は、息を引き取るしばらく前、もう一度幻を見た。
わたしの後継者の一人がその兄弟たちの屍を乗り越えて逃げるのを見ました。彼は変装してどこかに身を隠し、ほんの短かな隠遁生活の果てに、悲惨な死を遂げるでしょう。世界が目の当たりにする現代のこの邪悪は、世の終末を迎える前に起らなければならない悲しみの始まりに過ぎないのです。

他のどの罪よりも多くの魂を地獄に落してしまうのは、肉欲の罪です。(福者ヤシンタ)

預言を読まれる前に

これから預言を読まれますと1つの疑問が出てくると思います。つまりカトリック以外の人は、どうなるか?と言う事です。上記の聖人、教皇ピオ10世による公教要理には、次のようにあります。「過失無く、つまり悪意無しに教会に属していない人も、洗礼を受けているか、あるいは少なくとも受洗の望みを持つ人で、まじめに真理を求め、出来るだけ神の御旨を果たす努力をしているのなら、教会の体から離れていても教会の霊魂に結ばれていると言えますから、救いの道を歩んでいることになります」 何の問題も弊害も無いにもかかわらず、つまり毎週ミサに行くのが面倒だからとか、罪を避けるのはいやだからなどの理由で、カトリック教会に行きたくないあるいは属したくない人の場合は、もちろん上記の教えは適用されません。では、逆に単にカトリック信者であれば良いのか?と言う事になりますが、同じ要理書には、「カトリック教会に属しながら、その教えを実行しない人は、死せる肢体ですから救われません。成人が救われる為には、洗礼と信仰だけでは十分でなく、信仰にあった行いが要求されます」と、あります。

さて僕自身の罪により、そして世界中で犯されている多くの罪により、イエズス様は、大変苦しんでおられます。 

最近カトリック教会において、聖なる典礼は、大きく乱れ、神中心の教会から人間中心の教会になりつつあります。御聖体における御子イエズスの現存の否定、聖母信心やその他の信心業の排斥、ドンちゃん騒ぎのようなミサなど教会の聖から俗への変化は、著しいものがあります。                            また第二バチカン公会議の精神の名のもとに、多くの犠牲や償いは、廃止され、聖なるミサにおいても多くの祈りが省かれ、教皇レオ13世による大天使聖ミカエルへの祈りも廃止されました。これは、とても残念なことです。ローマ奉献文(第一奉献文)を唱える司祭も今では、ほとんど居なくなり、他の短い奉献文しか唱えられていません。

跪く機会もほとんど無くなり、神への愛よりも、隣人愛や慈善事業などが強調されつつあります。もちろん隣人愛などは、この上なく大切なものですが、神への愛に勝るものはありません。イエズス様を蔑ろにする事ほど愚かな事はないのです。まず第一に神様を全てに超えて愛する事、そして自分を愛するように隣人を愛する事が大事です。 「イエズスは、答えられた。第一の掟はこれである。・・・全ての心、全ての霊、全ての知恵、全ての力をあげて主なる神を愛せよ」(マルコ12:29〜30) 

上記の福者ヤシンタの言葉をよく考えてみてください。今、教会では、神の正義、審判、地獄などはについては、ほとんど話されません。否、むしろ否定する者すら居るのが現状です。しかしこれらは、全て現実であることを忘れては、なりません。今現在の世界を、あるいは今の日本を聖パウロの言葉で言うのなら、「彼らの道徳観は薄れ、全ての情欲と汚れを行い、淫乱の生活にふけった」(エファゾ4:19)と言っても決して言い過ぎではないと思います。コンビニに行っても、本屋に行っても、ネット上でも、テレビや映画を見ても、常にわいせつなものがあふれ氾濫しています。性の低年齢化や乱用は、目にあまるものがあります。これは、神様にとって大きな悲しみであり、痛みでもあります。私たちは、これらの悪を信仰と祈りと神様への愛を持ってことごとく避けなければなりません。(カトリック教会では、猥褻な物を故意に見る事、婚前交渉、避妊、自慰などは、全て禁じられています)

「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23) 福者ヤシンタが言うように、最も地獄に堕ちる罪が肉欲の罪です。これから聖人方が残した預言について書きますが、それよりもはるかに恐ろしい事、預言とは比べる事が出来ないほど恐ろしい事は、地獄に堕ちること、すなわち永遠の死です。地獄に堕ちるのが恐ろしいと言うよりも、むしろそれは、神と永遠に離れる事を意味するから恐ろしいのです。それは、この上ない苦痛です。あなたが、もし最も愛している人と永遠に離れることになったら、ものすごく辛いし悲しいでしょう。神と永遠に離れると言うことは、それ以上の苦痛と悲しみをあなたにもたらすことになります。(と同時に、火でも焼かれる事になります。この苦痛に終わりは、ありません)

「御独り子を与えたもうほどこの世を愛された」(ヨハネ3:16)神様も同様で、私たちと永遠に離れることをお望みにはなりません。ですから、近年、聖母や聖人方を通じて、世に警告をお与えになっておられます。それは、教会の世俗化や世界の性的な堕落など人間が神様から頂いた自由意志を乱用して、神様を追い出すような自由気ままに、そして欲望のままに生きているからです。今のままでは、私達は死後、神様と永遠に離れてしまう事を意味します。でも神様は、放蕩息子の良き父親にように、一人一人に呼びかけ、警告も与え、ご自分の懐に帰ってくるのを心待ちにしておられます。福者ヤシンタは言いました。「もし人々が、永遠を理解する事が出来たら、彼らは、自分達の生き方を変える為になんでもするでしょうに!」

そうです。私達は、生き方を変えねばなりません。司祭や隣人の為、そして自分自身の為に祈らなければなりません。救いの為と回心の為の第一歩は、『ゆるしの秘跡』を受けることです。もし弱さゆえに同じ罪を繰り返すことがあっても、失望することなく何度でもこの慈悲の秘跡に近づいてください。主は、まことに放蕩息子の良き父親のようにあなたが帰ってくるのを待っているのです。罪ゆえの失望は、悪魔の誘惑です。失望は、悪魔が最も得意とする誘惑の一つです。「告白は、慈悲の秘跡です。だから私たちは、ゆるしの秘跡に信頼と喜びを持って近づかねばなりません。告白なしに救いは、考えられません」(福者ヤシンタ)

では、これから少しの間、聖母や聖人方の警告に耳を傾けてください。しかし、その前に注意すべきことがあります。ローマ教皇も警告されてるように、決して狂信的にならないでください。またこれらのことを悪用して、人々をだまし、財産を奪おうとする偽予言者達にも、注意してください。信者として罪を避け、勉強をしたり働いたりそれぞれの立場で、普通の生活をしていれば、何も恐れることも、特別なことをする必要もないのです。福者ピオ神父様は、言いました。「神様と教会の掟(神の十戒と教会の6つの掟)を守りさえすれば十分です。自分の魂を救うために十分です」 そして先ほど書いたように、まず第一に神様を。そしてその次に隣人を自分を愛するように愛せばいいのです。自分にして欲しい事を他人にしてあげる。自分にして欲しくない事を他人にもしないと言うこ事です。それから、これらの預言は、いつ起こるか分かりません。信者として普通の生活をしていれば何も恐れる事は、ないでしょう。繰り返しますが狂信的にはならないで下さい。

「兄弟たちよ、その時と時期については、書く必要が無かろう。あなたたちは、主の日が夜の盗人のように来るものである事を知っている。人々が平和である無事であると言う時に、滅びは突如として彼らの上に下る」(第1テサロニケ5:2〜3) この御言葉は、もちろん世の終わりと主の来臨を表している言葉です。これから書く聖人方の預言は、世の終わりについてではなく、その前に来る天罰や艱難についてだと思われます。でも慌てることも恐れることもありません。普通の生活をしていればいいのです。信仰を守り、そしてそれぞれの立場に応じて働いたり、勉強したりしていればいいのです。ただ「警戒せよ・・・・あなたたちも、思わぬ時に来る、人の子のために用意しているが良い」(マテオ24:42〜43)と言う事です。

真理から耳を背け、作り話に耳を傾ける時が来るであろう。(ティモテU4:4)

福者アンナ・マリア・タイギ (祝日6月8日 1769 −1837)

左の写真は、ローマのトラステヴェレの聖クリソゴメス教会に安置されている福者アンナ・マリア・タイギの腐敗を免れた遺体です。

(福者アンナ・マリア・タイギの小伝)アンナ・マリア・ジェズアルダは、1769年5月29日にイタリアのシエナに生まれました。アンナは、7歳の時に、初聖体を受け、頭が良く、美人で、しかもとても親切な人でした。学校で、裁縫、家事、読み書きを、そして教会では、カトリック要理を学びました。後にアンナは、聖霊の賜物に恵まれ、教理に精通し、神学者達を驚かせました。

20歳の時に、ドミニコ・タイギと言う28歳の男性と知り合い結婚しました。しかし、アンナは、外見が美しかったので、オシャレに時を費やし、身の覚えの無い噂さえ立てられました。それでも根は信心深いアンナ。こんな生活態度ではいけないと良心の呵責を感じ、神父に告解し、霊的指導を受けました。それから、アンナは、神父の薦めにしたがって、三位一体会の第3会員に入会しました。それは、アンナ21歳の時で、1児の母でもありましたが、自分は、世界の罪を償うために犠牲となるように召されていると常に感じ、どんな苦しみでも、喜んで受けたいと思っていました。

最初の子が生まれた時、聖母マリアが御出現になり、次のように言われたそうです。「主があなたをお召しになった生き方を通して、主イエズスの御旨を行うことに努め、自分の意思よりも、主の御心を優先させなさい。そこにあなたの特別な召命があるのです」 その後は、イエズスの導きによって、謙遜、従順、慈悲、苦行の精神を著しく進歩させました。同時に子宝にも恵まれ、引き続き14年間、妊娠、哺乳、養育をなし、7人の子供を立派に育てました。その他の子供も引き取って育てたので、夫の給料だけでは足りず、アンナは毎晩夜遅くまで働き、深夜に仕事から帰って来る夫に夕食を食べさせ祈りをさせたりしているといつも寝るのは、午前3時でした。それでも2時間の睡眠後、早朝5時からの御ミサには、毎朝与っていました。

毎日夕食が済むと子供たちに晩の祈りをさせ、カトリックの要理を教え、聖人伝や聖書などを読み聞かせ、子供達が寝てから夫が帰ってくるまでアンナは、わき目も振らず働きました。アンナは、家に小祭壇を設け、上には十字架、下には、聖母と聖フィロメナの御絵を飾り、真ん中にランプを置き、年中灯していました。そして毎日この祭壇の前に跪き、家族全員に祈りをさせ、この部屋の入り口に聖水容器を備え、毎晩寝ている家族に聖水を振りかけて祝福していました。(アヴィラの聖テレジアは、聖水を使うように薦めています)

アンナは、とても貧しい生活をしていましたが、身内だけでなく、身内外の人や病人もよく世話をし助けました。また死者のためにもよく祈り、日常の苦しみを捧げました。実際アンナは、人前で微笑みながらも、心中では絶え間ない苦しみにありました。ひっきりなしに続く頭痛、耳鳴り、のどの痛み、関節リューマチのひどい痛み。また重い喘息などの持病もありました。それに加えて、多くの悪口や罵り、中傷なども受け、それでもアンナは、「御旨が行われますように」と心の中で絶えず祈っていました。ところでアンナの夫は、とても短気で暴力的な人でしたが、アンナに感化され、次第に良き夫、良き父親になりました。

こんなアンナでしたが、預言する賜物を神様から頂いていました。当時の教皇ピオ7世やナポレオンの未来を預言したり、教皇ピオ7世がフリーメーソンから命を狙われている時は、ここに行ってはいけないとか、ここに居てはだめだとか前もって知らせたりもしていました。また教皇の死期を知らせたのもアンナでした。その後も、次の教皇レオ12世の身の上に起こる事を預言し身辺を守ったり、教皇の死期や次の教皇の選出名や選出日まで預言したり、ローマで起こる革命や教皇領が取り上げられること、その時代の戦争なども預言しました。

こうしてアンナは有名になり、王族も貴族も一般の人々もアンナに意見を聞きに来ました。アンナは誰にでも親切にし、共に祈りました。アンナは、自分に現れてくる不思議な太陽の様な光の中に、現在のことも未来のことも、遠国のことも、神学問題も明らかに分かりました。また地獄に堕とされた霊魂、煉獄に苦しむ霊魂のことも知っていました。煉獄にいる霊魂の関係者に、そのことを伝え祈るように薦めたりもしていましたが、宝くじの当り番号や預言を悪用する人には、決して何も教えませんでした。

このように、上流社会ともお付き合いのあったアンナでしたが、アンナの家庭は、相変わらず貧しく飢えに苦しむほどでした。やがて病気にかかったアンナでしたが、7ヶ月間の闘病後、1837年6月7日に安らかに息を引き取りました。69歳でした。1920年に列福。祝日は、6月8日です。(この福者が列聖される時に・・・。)

 暗黒の3日間(福者アンナ・マリア・タイギの預言)

神様は、2つの罰をお下しになるでしょう。1つは、戦争、革命。あるいは地上で起こる災害で、もう1つは、天から送られるでしょう。全地上には、三日三晩続く濃い暗闇が襲うでしょう。見えるものは何も無く、空気は悪疫で満ちるでしょう。おもにその悪疫は、カトリック教会の敵を奪うでしょう。

この暗闇の間、人工的な光は不可能となり、ただ祝別されたろうそくだけが光を灯し、明かりとなるでしょう。好奇心から窓を開けて外を見たり、家を出たりする者は、その場で死んでしまうでしょう。この3日間だけは、人々は、自分の家に留まり、ロザリオを祈り、天主に憐れみを請うべきです。

この恐ろしい時に、これらの悪人、主の公教会の敵と天主の敵とは、この天主の鞭によってあまりにも多く殺されるので、ローマを取り巻く彼らの死体は、ティベル河の最近の洪水がローマにもたらした死んだ魚と同じほど多くなるでしょう。公教会の敵、ひそかな者も公然としている者も同じく、かの万民共通の暗黒の間全地上で、−−−ただしすぐ回心させるほんのわずかな例を除いて−−−全て滅びるでしょう。

3日間の暗黒の後、聖ペテロと聖パウロは、天から来られて、全世界で説教をし、新しい教皇を任命するでしょう。彼らの体から大いなる光が輝き、その枢機卿、すなわち未来の教皇の上に止まるでしょう。そしてキリスト教は、全世界に広がり、この回心は驚くべきものです。生き残る人々は、よく身を処さねばならなくなるでしょう。公教会の胸元に戻ってくる異端者の無数の回心があるでしょう。全ての人々は、自分たちの人生を他の全てのカトリック信徒の人生と同様に啓発している指導に気づくでしょう。ロシア、イギリス、そして中国は、公教会に入ってくるでしょう。

ピオ神父の暗黒の3日間と呼ばれている預言があります。日本語にも訳されておりますが、これは、ピオ神父の預言では、ありません。(イタリアのサン・ジョヴァンニ・ロトンドの修道院の神父様方が、はっきりと否定されております。これらの事は、ピオ神父の公式雑誌にも掲載されています)

主の日は、盗人のように来るであろう。(ペテロU3:10)

聖ニロ (祝日11月12日 ?〜430)

(左の聖画、違う聖ニロだったら、ごめんね。以下は、聖ニロの預言からの抜粋)20世紀の半ば頃になれば、その時代の人々は、判断がつきにくくなって来るでしょう。反キリストの時が近づくにつれ、人々は、肉欲の霧に覆われ、益々恥ずべき事と掟に背くことを行うようになるでしょう。人々の姿も変わり着用する服によって、男女の区別さえ分からなくなるでしょう。それは、恥を知らない服装や髪形のためです。この種の人々は、反キリストの誘いに負けて残酷になり野獣のようになるでしょう。親に対しても年配の人に対しても尊敬を失い、その心に愛の火は消えてしまうでしょう。

キリストの牧者である司教や司祭たちも真面目さをなくし、善悪の区別さえも完全に分からなくなるでしょう。こんな時代が訪れれば、キリスト信者と教会の道徳観とならわしが変わり、人々は、つつしみを捨てふしだらな生活に慣れてくるでしょう。詐欺、貪欲が横行し、宝を蓄える人に災いがあるでしょう。淫乱、姦通、同性愛、密通と犯罪は、社会において規則ででもあるかのようになるでしょう。

その来るべき時代ともなれば、人々は、洗礼の時に受けた聖霊の恵みとそれに相当する悔い改めの心を失うでしょう。それは、上記に述べた大きな犯罪と放蕩生活の結果です。神の諸教会は、神を恐れる信仰深い牧者を剥ぎ取られ、その時代に生き残る信者は、災いです。その時の信者たちは、誰からも知恵の光を見るチャンスが無くなるので、大部分の人が完全に信仰を失うでしょう。その時彼らは、世間から離れて自分たちの霊的苦しみを照らしてくれるものを探す為に、聖なるところに避難をするでしょうが、どこに行っても、困難と圧迫にぶつかるでしょう。

・・・その時に、反キリストは、一人の不幸な人に堕落した知恵を与え、これによって、その人は世界の果てから果てまで話を交わす事のできる新発見をするでしょう。その時また人々は、鳥のように空高く舞い上り、また魚のように海の深みまで下りる事があるでしょう。不幸な人々が、これらの事を全て獲得したら、それが反キリストのだましの手段とも分からないので楽な生活をするでしょう。そのとき不敬な反キリストは、人々を正しい道からそらせて、3つのペルソナにまします唯一の神の存在に対する信仰まで失わせることに成功するでしょう。

その時になれば、いつくしみ深い神は、人類の堕落を見て、救われるわずかな人達の為に、その日々を縮められるでしょう。なぜなら敵である悪魔は、選ばれた人たちさえも、誘いに負けさせようとするからです。その時になれば、天罰の剣が急に現れ、誘い者とそれに仕える人々を殺すでしょう。

彼らの道徳観は薄れ、全ての情欲と汚れを行い、淫乱の生活にふけった。
しかしあなた達は、キリストからそんな事を習ったのではない。
(エフェ4:19〜20)

聖マリア・ファウスティナ (ヘレナ・コヴァルスカ) (祝日10月5日 1905 −1938)

ヘレナ・コヴァルスカは、ポーランドのグウォゴヴィエツと言う小さな村で、1905年8月25日に生まれました。10人兄弟の3番目の子でした。子供のときは、とても貧しくて、同級生にも、よく笑われたと言う苦しい経験もしました。しかし、幼い頃のヘレナは、よく祈り、信仰に関する本もよく読んでいました。家族も信心深く、後にヘレナは、こう言っています。「父の祈る姿を見てとても恥ずかしくなりました。なぜなら、こんなに長い間修道生活をしても、私は、父のようにあれほど熱意を持って、熱心に祈ることは、出来ないと思えるからです。ですから、そんな両親を与えてくださった神様に絶えず感謝いたします」

ヘレナは、14歳のときからお手伝いさんとして働き、自分の家族を支えていました。そんな彼女も絶えず自分の使命を探していました。すでに、7歳の時に、神様の声、つまり、より完全な生活への招きを聞いていたのです。でも具体的な決心に至らず普通の生活を続けていたのです。さて18歳の時のことです。ヘレナは、友達とダンスパーティーを楽しんでいました。するとその時、非常に力強い神の呼びかけを感じました。受難のイエズスが現れ、「いつまで、あなたのために苦しまなければならないのだ。いつまで私を惑わすつもりか」と言われ、音楽も聞こえなくなり、周りの人々の姿も見えなくなります。ただキリストの声だけが聞こえ、キリストの姿だけが見えます。そこでこれからやるべきことがイエズスから示されたのです。

やがてイエズスの導きにより、1925年8月1日、ヘレナは、憐れみの聖母修道会に入会しました。そして志願期を終えたヘレナは、1926年4月30日に修道服とマリア・ファウスティナと言う修道名をもらいました。観想的だったシスター・ファウスティナは、祈りすぎると同僚から文句が出たほどで、あるいはロザリオを手にしながら、草取りをしていたと言う姿が伝えられています。修道生活の始めの頃は、霊的な苦しみや初期の結核で、随分、体が弱ってしまいました。そんな彼女を時には、ちょっとしたおとぎ話のような奇跡で、イエズスは、助けておられました。

やがてがシスターの死後、世界中に広まることになる、神の慈しみに関するメッセージや祈りなどをイエズスから啓示されるようになります。まずこのメッセージでは、いつくしみの御絵崇敬し、神への深い信頼を持つ事。それから神のいつくしみを褒め称えるための外的信心。それから祈りや行いなどによるいつくしみの実行が望まれています。祈りには、ノヴェナや慈しみの賛美、信頼の祈りなどたくさんあります。またいつくしみの祝日の祝い方などそのほか重要なメッセージもあります。(それは後で少し紹介します) もちろんマリア・ファウスティナも他の聖人同様、たくさんの霊的、肉体的苦痛を味わい、また周りからの誤解や病気でも苦しみました。そして1938年病室に移ったマリア・ファウスティナは、絶えず神のいつくしみを願い、最後まで味わっていた苦痛と祈りを全て罪人のためにささげていました。そして同年10月5日の夜遅く、司祭に罪を告白した後、安らかに息を引き取りました。

聖マリア・ファウスティナが受けた預言

これを書き記しなさい。審判者として私が来る時、私はまず、いつくしみの王としてやって来る。正義の日が訪れる前、天にはその印が現れる。天と地において、全ての光が消え失せる。天空には十字の印が現れる。私の手と足の傷からは、しばらくの間、地(地球)を照らし出す光が放たれる。それは、終わりの日に先立つ、ほんのしばらくの間である。(右の絵は、神の慈しみの御絵。主の聖心から出ている2つの光線は、青白い方が霊魂を義とする水。赤い方が霊魂の生命である血を意味します)この2つの光線のもとに生きる人は幸い。神の正義の御手は、この人を捕らえることが出来なからである(229番)

預言では、ありませんがとても重要なメッセージです。「わたしのいつくしみについて世界に話しなさい。全人類は、わたしの限りないいつくしみを見きわめるように。それは、終末の時のための印である。その後、正義の日がやって来る。まだ時間がある内に、私のいつくしみの泉に近づき、彼らのために流れ出た血と水を利用するように彼らに言いなさい」 (848番)

「私の秘書よ、わたしは、正しい人のためよりも、罪人のために気前がよいと書きなさい。彼らのために地上に降り、・・・・・・彼らのために血を流した。彼らが、わたしに近づくのを恐れないように。彼らこそ誰よりも、私のいつくしみを必要としている」(1275番)

「人が、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1576番)

「私は、苦しんでいる人類に罰を与えたくない。私のいつくしみ深い心に人類を引き寄せることによって人々を癒したい。人々が、私に罰を与えるように強いる時だけわたしはそうする。私の手は、正義の剣を取ることを好まない。正義の日の前に、私は、いつくしみの日を送っている」 (1588番)

十字架の死に至るまでのイエズスの従順は、「正義の剣を遠ざけて、いつくしみの期間を延ばしました」 その為に、現在は、いつくしみの時なのです。この世に生きている間に誰にでも回心のチャンスが与えられています。神は絶えず人間の回心を待っています。実はそれだけではなく、神はあらゆる罪の中に生きている人間を、ご自分のいつくしみをもって追いかけています。いつくしみ深い神は忍耐強い方なので、すぐに罰を与えることはありません。罰のためには永遠があります。正義の日がやってくる前に、神はまずいつくしみの日を送り、いつくしみの王を遣わします。しかし、もしいつくしみの王であるイエズスを受け入れないならば、その人は正しい審判者であるイエズスの前に立つことになります。

「正しい審判者として来る前に、まず私のいつくしみの戸口を広く開ける。この戸口を通って入りたくない人は、正義の戸口を通って入らなければならない」(1146番)

誰一人も、私の手から逃げることが出来ないと罪人に言いなさい。彼らが、私のいつくしみ深い御心から逃げているならば、必ずわたしの正義の手に陥る。は、いつも彼らを待ち、彼らの心がわたしに向かって鼓動しているかを聴いていると罪人に言いなさい。書きなさい。わたしは、良心のかしゃく、失敗と苦しみ、または嵐と雷、教会の声を通して彼らに語っている。わたしのすべての恵みを無駄にしてしまうならば、わたしは、彼らに怒りを感じ始め、縁を切り、望みのままにする」(1728番)

「最も大きな罪を犯している人が、私のいつくしみに信頼するように。他の人よりも彼らこそ、私のいつくしみの淵に信頼する権利がある」 (1146番)

「私のいつくしみから恵みを汲むためには、ただ一つの器しかない。それは、信頼なのである。人は、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1578番)

「私は、自分自身をあなたの信頼に任せる。あなたの信頼が大きいほど、私は、限りなくいつくしみを与える」 (548番)  「私を信頼しないことが、何よりも私を大きく傷つける 」(1076番)

ゆるしの秘跡
シスター・ファウスティナの日記によると、主イエズスは、私達が、ゆるしの秘跡を受けることによって、神のいつくしみを礼拝すると強調しています。
シスター・ファウスティナに向かって、主イエズスはこう語ります。「私のいつくしみについて書き、話しなさい。慰めを探すべきところを人々に教えなさい。それは、いつくしみの裁判所である。そこでは最も偉大な奇跡が絶えず繰り返される。わたしの代理者のもとに近づき、自分の全てのみじめさを話すだけで、神のいつくしみの奇跡は完全に現れる。魂は、腐りつつある死体のようであっても、あるいは人間にとっては、復活が不可能となり、すべてが失われたようになっても、神にとっては、そうではない。神のいつくしみは完全にこの魂を復活させる」(1418番)

ゆるしの秘跡に近づく時、告解所には、わたし自身があなたを待っていると言うことを意識しなさい。私は、司祭の姿に隠れるが、魂において自分自身で働く。ここでは、みじめな魂は、いつくしみの神と出会う。このいつくしみの泉から、ただ信頼という器だけで恵みを汲むことが出来ると人々に言い伝えなさい。彼らの信頼が大きければ大きい程、私の気前よさには限界がない」(1620番)

聖体拝領
イエズスは、シスター・ファウスティナにこんな言葉を語りました。「わたしは、人間の霊魂と一致することを望む。霊魂と一致することは、わたしの大きな喜びである。聖体において人間の心に入る時、私の手はあらゆる恵みで満たされている。この恵みを人々に与えたいが、人々は私を無視し、一人に残して、別の事に心を向ける。人々が愛を見きわめない為に、私はとても悲しんでいる」(1385番)

「御聖体において、わたしと一致する人が少ないので、わたしはとても苦しい。わたしは人々を待っているのに、彼らはわたしに対して無関心である。わたしは心をこめて、これほど誠実に彼らを愛しているのに、彼らはわたしを疑う。彼らにたくさんの恵みを注ぎたいのに、彼らはそれを受け入れたくない。わたしには愛といつくしみに満ちあふれる心があるのに、彼らは、わたしを何か死んだものように扱う」(1447番)

「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」  (1146番)

(※信頼するようにと罪人に呼びかけるイエズスは、こう言われます。「痛悔する魂にとって、私は、いつくしみである」(1739番) 痛悔なしの信頼は、単なるハレンチであり、いつくしみではなく、放縦を期待することです。これは大きな誤りです)

我が娘よ、真実に私を愛する者は、なんと少ない事だろう。(アヴィラの聖テレサへのイエズスの言葉)

 

 

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